6/7/2019_東浩紀「テーマパークと慰霊――大連で考える」を読む

はじめに

東浩紀のエッセイ「テーマパークと慰霊――大連で考える」がとてもすてきな内容だったので、今回はその感想のようなものを書いていく。
本作は、2019年1月末に配信されたゲンロンβ33(ゲンロン)に掲載されているものだけれど、読んだときに思ったことなどを結実させられずに4カ月以上も過ぎてしまった。
その状況はいまだ変わらないのだけれど、たとえばこのままなにも書けず、今晩にでも横断歩道で一時停車しない車にひかれたら息絶える前に後悔の気持ちがわいてくるだろうから、きょうこそと決意してキーボードをカタカタしている。

「テーマパークと慰霊」では、タイトルで示されているとおり、大連の観光体験をとおしてテーマパークと慰霊にまつわる思索が展開されている。とても乱暴になってしまうけれど、内容は次のようなもの。

・東は小学生のころに森村誠一悪魔の飽食(1981)を読み、人間の悪に、そして作品の舞台である満州について興味を抱いた。
・東の仕事はこれまで満州と直接的にかかわることはなかったが、いよいよ本格的に考えるため満州(中国では「偽満州国」と呼ばれている)へ観光(取材)に向かった。
・それは、近年の東の仕事において重要なテーマのひとつとなっている慰霊について考えるためでもあった。
・しかし、観光先のひとつである大連で、東は、大連がテーマパークに似ているということを感じ、衝撃を覚える。
・たとえば、ロシアや日本が大連の宗主国であった時代の建築物はいまでも残っており、それらが集まっている各地域はロシア風情街、日本風情街などと呼ばれているが、そもそもロシアも日本も自国風の建築を建てたわけではない――イギリス、フランス、ドイツなどの当時の先進国の模倣、あるいは模倣の模倣である――ため、その根無し草感、ある種の偽物っぽさが、大連にテーマパーク的な風景をもたらしている*1)。
・そもそも「テーマパーク」とは、「慰霊」とならび東の近年の仕事における重要なテーマのひとつであり、これらは一見相いれないテーマのように見えるが、どこかでつながっているはずだと感じていた。
・エッセイは、「満州国の霊を探しに行ったら、そこにはテーマパークが広がっていた。ぼくはいま、その意味について考えている」という一文で終わる。

大連中山広場と『トゥルーマン・ショー

このエッセイでは、写真が1枚も掲載されていない。おそらくこれは、エッセイを読んだ読者に直接大連へ足を運んでほしいという作者の願いが込められているのではないかと、わたしは勝手に想像している(『ゲンロンβ33』の表紙には後述の「海昌・東方水城(海昌・东方水城)」の写真が1枚だけ載ってはいる)。なので、「大連に行かずごめんなさい」と念じながら、わたしは読了後にまず、エッセイに登場した地名や建築名を検索窓に打ち込み、ウェブ観光を実施した*2

その中でもわたしが最初に興味を覚えたのは、エッセイでも紹介されている大連中山広場(大连中山广场)という円形の広場。
エッセイでは、日本風情街を歩いている東が、フィリップ・K・ディックの小説やピーター・ウィアートゥルーマン・ショー(The Truman Show)(1998)のような非現実感のある都市風景に頭を悩ませた過去を思い起こす様子が描かれているが、中山広場もまさに『トゥルーマン・ショー』的な空間だと感じた。
というのも、『トゥルーマン・ショー』では、「本物/偽物」という二項対立とならんで――というより、その二項対立を演出するための比喩として――円形、回転が重要なモチーフとなっているからだ。

たとえば、トゥルーマンの勤務先のビルの入り口は回転式ドアで、トゥルーマンがそこを通るさまは、ドアの中心に置かれたカメラのパンによるカットで演出される*3。ボート乗り場のゲートも腰の高さでバーが回る回転式のもので、トゥルーマンをテレビ中継するための監視カメラの映像でもパンが多用される。

また、自分以外の人々(キャスト)が同じ行動を繰り返していることに気づいたトゥルーマンは、妻(という役割を演じているキャスト)を車に乗せ、ふたりの目の前の道を次に通り過ぎる車種を予想し、言い当て、妻に次のようなセリフを言う。

何でわかったと思う?
教えよう。
回ってるんだ。
ひとまわりして戻ってくる。
また一回り。
ぐるぐる回ってる。
ぐ~るぐる~*4

Don't you want to know how I did that ?
I'll tell you.
They're on a loop.
They go around the block. They come back.
They go around again.
They just go round and round.
Round and round.

このセリフのあと、妻を無理やり連れて街を出ようとするトゥルーマンは、自宅付近の円形の道路を何周も回ることでエキストラやスタッフたちの目を撹乱しようとするが、このぐるぐる回っているシーンには、回転運動の強調を狙ったと思われる俯瞰ショットも挿入される。
本作におけるこれらの回転は、つねに「本物」を隠蔽されて周辺をぐるぐる回るしかないトゥルーマンの生、そしてトゥルーマンをショーに閉じ込めておくためにルーティンをこなし続けるしかないキャストたちの「偽物」の生の暗喩となっている。
これが、わたしが中山広場を見たときに『トゥルーマン・ショー』を強く感じた理由のひとつだ。

海昌・東方水城と「新しい自然」

次に興味深かったのは、まるでゲームのCGのようだと形容されていた、TDLと同程度の広さがある無料のテーマパーク「海昌・東方水城」。
画像検索をかけてみると、まさにFINAL FANTASY XVスクウェア・エニックス、2016)に登場する水上都市オルティシエの風景を想起させるような写真がたくさん出てきた。ヴェネツィア、東方水城、オルティシエの画像を見比べていると、ちょっとした酩酊感(?)を味わえる(もちろん、画面越しにしか見てないエア観光者の妄言)。もはや、エイジングの効果などで東方水城よりもオルティシエのほうがヴェネツィアに「近い」気さえしてくる。

ここで思い出したのは、「テーマパークと慰霊」と同じく『ゲンロンβ33』に収録されている、土居伸彰、吉田寛、東の鼎談「反復性と追体験──触視的メディアとしてのゲーム/アニメーション(後)」での議論だ。
鼎談では、アニメやゲームにおける二重性(そこで描かれているものは、現実に存在するものの表象であると同時に、現実には存在し得ないフィクションでもある)の理論から逸脱するような作品が近年出現してきており、それらの中で描かれるものはもはやそれまでのフィクション空間と異なり、「新しい自然」を創出しているという論点が提示されている*5

わたしはいつからか、フォトリアルなCGキャラクターに独特な魅力を感じると同時に、そのキャラクターの造形や質感が現実のそれに近づくたびに、「これ以上現実に近づいたらどうしよう」とかってに不安に思うようになっていた。これは印象論にすぎないけれど、ここで失われるかもしれないと恐れていたものは、この現実に生きている「自然」の人間とは異なる、しかし二重性のある従来のアニメキャラクターやCGキャラクターといった「フィクション」とも異なる、「新しい自然」だったのかもしれない。
そして、ヴェネツィアと東方水城とオルティシエを並べたときに感じる酔いは、それら3つのレイヤー(自然、フィクション、新しい自然)をいっぺんに目に入れたことによるものなのかもしれない。

テーマパークと二次創作

ここからが本題。
このエッセイは「テーマパークと慰霊」の交差点について考えていた。
冒頭では、次のような文章が配置されている。

 テーマパークと慰霊。このふたつの主題はいかにも対照的だ。前者は明るく、後者は暗い。前者は生をめぐる話で、後者は死をめぐる話だ。そしてイデオロギーの観点からすれば、前者は新自由主義肯定で消費社会礼賛でつまりは保守派の関心に基づく議論で、後者は人文的で権力批判的で反消費社会的でつまりはリベラル派の関心に基づく議論のように見える。
 けれども、ぼくは、同じひとりの人間がやっているのだから、両者はどこかでつながっているはずだと感じていた。

ひととおりエア観光を終えて再読したとき、わたしは、テーマパークと慰霊が「つながっているはず」の「どこか」とは、「二次創作」的な性質においてなのではないかと思った。

テーマパークと二次創作の関係については、すでに東のさまざまな著作で語られている。東のテーマパーク論に「観光」は欠かせないものであり、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、2017)の「付論」では、観光と二次創作についての思考がまとめられているし、ショッピングモール≒テーマパークの二次創作性、あるいは本物/偽物の境界を歩くような思考は、東浩紀思想地図β Vol.1(コンテクチュアズ、2010)や『ショッピングモールから考える』を読むとよくわかる。

ショッピングモールやテーマパークは、現実のさまざまなモチーフや意匠(~っぽさ)を取り入れた人工的な空間であり、そこには人々のさまざまな欲望や理想が込められている。結果として、そこには言語が政治、宗教までをも飛び越えて人々が連帯できる新たな公共性の萌芽があるのではないかというのが、東のショッピングモール≒テーマパーク論の要だ。
たとえば、石川初はこのアイデアが具現化されたような風景を「モールスケープ」と呼び、写真とともに次のように紹介している。

気温三五度、湿度八〇パーセントの熱帯都市に、人工的に気温二七度、湿度五五パーセントの場所をつくり、ヤシの鉢植えを置いた広場に、北ヨーロッパの冬のジオラマを設置して、キリスト教由来のイベントを演出し、そこで防寒服を着用したヨーロッパ系の老人の人形と記念写真を撮る、ムスリムの親子*6

このごちゃまぜ感に眉をひそめる人もいるかもしれない。けれど、それぞれ世界観の異なる原作を好む消費者同士が、ふたつともが登場する二次創作(偽物? シミュラークル? 新しい自然?)においてなら連帯できる、あるいは連帯しているように見えるのだとしたら、その可能性と限界について考えることは、あらゆる分断と過剰なつながりに覆われたいまの社会にとっては大事なことのはずだ。
極論をいえば、そもそも、わたしたちが「現実はこうである」と思っている認識と、「この現実」はどうしても乖離してしまうのだから、「どっちも二次創作」であるという自覚が分断を止めることだってできるかもしれない。
だからこそこれは、慰霊の問題にも通じていくのだと思う。

慰霊と二次創作

 「テーマパークと慰霊」でも記されているように、日韓、日中問題は慰霊の失敗の結果として捉えることができる。エッセイの番外編としても読める東の『AERA』のコラムでも、「日韓の歴史論争はいまや宗教戦争に似つつあるとの感覚を抱いた」と記されていて、読むたびに胸がつまる。
ここでわたしは、どっちも二次創作だから争うのはやめようなんてことを言いたいわけではないし、どれが原作でどれが二次創作かという話がしたいわけでもない。そもそも、東も折にふれて述べているように、可能世界は無限にあるが、この現実はひとつしかない。

迷走してきたので、別の路線から考えてみる。
わたしが慰霊と二次創作というふたつのキーワードで初めに思い出したのは、『9-1-1:LA救命最前線(9-1-1)(Fox、2018~)というアメリカのドラマだった。
シリアル(続きもの)型と一話完結型のハイブリッドという、近年主流の構造*7をそなえたドラマで、911オペレーター、消防士(救命隊)、警察官たちの活躍や、プライベートでの苦難などが描かれる。
なかでも消防士の輝きが目立つ本作だが、そのリーダーであるボビー――『トゥルーマン・ショー』でトゥルーマンの同僚役だったピーター・クラウス(Peter Krause)が演じている――は、非常に頼れる人物でありながら、シーズン1の中盤までチームメンバーに心を開かない。

その理由はボビーの過去にある。
ボビーは、けがや仕事のストレスが――ビルから飛び降りようとする人を説得できず、目の前で命がなくなるさまを突きつけられることなど彼にとっては日常だ――原因で、アルコール依存症抑うつ症状に苦しんでいた。ある日、それらの障害をきっかけとして自分が住んでいるマンションで火事を起こしてしまい、自身の妻や子どもを含む148名を死に至らしめてしまう。以降、ボビーはこの死者の数と同じ数だけ人を救ってから自殺するという目標だけを生きがいに、毎日を過ごしていた。

わたしは、このボビーの目標設定こそがまさに二次創作的だと思った*8。ここでの原作を148名の死と仮定してみると、この原作はもはや変えようがない。死は取り消せない。ボビーが「死者とは異なる148名」を救おうが、その果てに自殺をしようが、死者は帰ってこないし、それでボビーが許されるかどうかも誰にもわかりようがない。というより、もし許しの行為を担うものが死者なのだとしたら、許されることは永久にない。だから、ボビーは自分が救済されるルール(ゲーム? 物語?)を立ち上げた。

ただ、ボビーの救済のための物語はあくまで二次創作だから、148名の死という現実が消えさるわけではなく、ときに現実の容赦ない存在感に負けてしまう。しかし、ボビーが過去をぬぐいきれずにふたたびアルコールにおぼれたとき、メンバーが助けにきてくれて、ボビーはこれまで自分が抱えてきたものを打ち明ける。そして、148名の名前が書かれた手帳とともに自殺する計画を捨て、メンバーとのきずなを深めていく。

作中では、ボビーがなぜ立ち直ることができたのかは、そこまではっきりとは明示されない。自殺してしまったら慰霊の担い手がいなくなる=慰霊が不可能になることに気づいたのかもしれないし、単に仲間のサポートによって、生きて人を救い続けることであの日の火事を克服しようと決意したのかもしれない。いずれにせよ、148名の死という現実に押しつぶされないだけの二次創作が彼のなかでもういちど、ひとまず立ち上がったことはたしかなはずだ*9

ここでは慰霊の担い手がボビーひとりしか描かれていない(ひとりの生者と多数の死者)が、現実には多数の生者と多数の死者の問題となることがつねだ。
テーマパークが二次創作的であるがゆえに新たな公共性を生みだしはじめているように、残された生者が共存できる二次創作の物語を探すには、どれだけの想像力と工夫が必要なのだろう……。

テーマパークと慰霊の交差点

もういちど『トゥルーマン・ショー』とテーマパークについて考えてみる。
劇中にて、シーヘヴンを設計した建築士で番組のクリエイターでもあるクリストフは、リアリティショーの主人公の候補として、もともと6名の赤ちゃんを選んでいた。番組放送開始日に生まれたのがトゥルーマンだったため、主人公はトゥルーマンとなった。
ここで重要なのは、トゥルーマンを含め、この6名の赤ちゃんはすべからく「親から望まれない生命だった」ことである。そして、会社とのあいだに養子縁組が成立している。

クリストフは、嘘があふれるシーヘヴンの外部の世界=原作≒わたしたちが生きる世界は病んでいて(sick place)、それに心底うんざりしていた。だからクリストフは、親から捨てられた赤ちゃんを守るために現実の似姿=二次創作としてシーヘヴンを運営することにした。
外部を排除して内部に理想をつくりこむという、トマス・モア『ユートピア』(1516)で描かれた理想がディズニーワールドやショッピングモールで体現されているように*10、クリストフもまたそのようなユートピアの思想をもってシーヘヴンを構想した。

終盤でクリストフは、シーヘヴンから出ていこうとするトゥルーマンを引きとめようとして、外と同じようにシーヘヴンにも嘘や偽善はあるが、嘘や偽善によって作り上げた真実の世界だからこそシーヘヴンではなにも恐れなくてよいのだと、ゆっくりと言葉を連ねる。

クリストフの行為は、原作でないものにされた命を二次創作で救おうとするファンのそれに似ているし、本物/偽物が反転したり、その境界を画定させないようなシーヘヴンの在り方は、「テーマパークと慰霊」で紹介されていた、清岡卓行「アカシヤの大連」(1969)、そして「新しい自然」にも通じるものがあるように思う。

複数の物語と分断

ところで、二次創作が新たな共存のための手がかりになるとして、それとは逆に特定の価値観を増幅させる力も二次創作には含まれている。異なる物語を生きている人と共存するためにも使えるけれど、自分たちが信じる信念、物語だけを強化するためにも使える。
しかし、東のルソー解釈によれば、人はそもそも社会をつくりたくない。ということは、とくに意識をしなければ人はどんどん自分の物語を強化させていってしまう。それは大きな物語の衰退(社会的に共有できる価値観やイデオロギーの喪失)=ポストモダン化がより徹底している現在ではより顕著になってきているように見える。わたしたちの世界には小さな分断も大きな分断もあふれかえっている。「物語が成立しない、あるいはあまりにもたやすく成立してしまう環境においては、物語は現実から離れ、自らを支える環境を再帰的に構築することでかろうじて生き残る」*11しかない結果として、いまのこの分断の時代がある。

それを感じるにはニュースかSNSを見るだけでも十分だとは思うが、たとえば海外ドラマ(といっても9割はアメリカドラマだが)を見ていてもそれは強く感じる。
なかでも、先述の『9-1-1』の製作総指揮も務めているライアン・マーフィー(Ryan Murphy)が手がけるドラマではたびたび分断が描かれる。

たとえば『アメリカン・ホラー・ストーリー:カルト(American Horror Story: Cult)』(FX、2017)では、ドナルド・トランプが大統領選に勝利したことに歓喜するカイと、絶望するアリーが対立を深めていくなかで、アメリカの政治という本来考えるべきであったはずの問題は置き去りにされ、「男性/女性」の生存競争のような様相に変化していってしまうさまが描かれる。

あるいは、現実の事件をモデルとした『アメリカン・クライム・ストーリー/O・J・シンプソン事件(The People v. O. J. Simpson: American Crime Story)』(FX、2016)では、被告であるO・J・シンプソン(O. J. Simpson)に関する捜査内容や供述よりも、「男性/女性」、「白人/黒人」という二項対立に引き込まれた人々が翻弄され、分断してしまう様子が描かれる。ゆえに、キューバ・グッディング・ジュニア(Cuba Gooding Jr.)の怪演が強く記憶に残るのとは裏腹に、彼の出演時間はほかの役者と比較してとても短いという印象を受ける。まるで、O・J・シンプソンという事件の中心のまわりを舞台に、する必要のない乱闘を人々が繰り広げているような構図になっている。分断が生み出す虚無感(?)を鮮烈に表現したすばらしい作品だ。

また、ライアン・マーフィー以外の作品でも、現代の八方塞がり感をかなり簡潔かつ記号的に描いたものでいえば、たとえば『刑事★コムラッド(Comrade Detective)』Amazon Video、2017)が挙げられる。本作では、資本主義/共産主義の二項対立がモチーフとして採用されている。
共産主義プロパガンダドラマとしてルーマニア政府が1983年代に制作したもので、チャニング・テイタム(Channing Tatum)を含む製作陣が苦労してマスターテープを入手したのち、英語の吹き替えをつけたもの」という「てい」のアメリカの怪作で、ブカレストを舞台に資本主義を喧伝する殺人犯を追うという内容なのだが、主人公のグレガー・アンゲルたちが犯人を追っていくなかで「資本主義と出会う」さまがおもしろい。
たとえば、「アメリカ人は自分の車を人に洗わせるらしい」ということを知ったグレガーは、悪魔でも目にしたかのような表情と声音で驚愕する。これ系のエピソードがたびたび描かれることで、資本主義への批判が積み重なる。
しかしそれは、共産主義の終焉後を生きるわたしたちにとって、そのオーバーリアクションゆえに共産主義の批判にも映る。
犯人を捕らえたグレガーは、10年以内には共産主義が冷戦に勝利するだろうと言うが、このシーンも洗車のエピソードと同様、資本主義にも共産主義にも無邪気に頼ることはできない行き詰まりの雰囲気をわたしたちににおわせる。

ところで、東は『観光客の哲学』において、ナショナリズムグローバリズムが重なり合って共存している現代社会、すなわち政治的信頼関係が育っていないまま経済の関係だけはかんたんにつながってしまう現代社会を、愛を確認せずに肉体関係を結んでしまう状態にたとえていたが*12、『刑事★コムラッド』ではまさにこれを体現するように、グレガーが事件を追うなかでアメリカ大使館の職員であるジェインと肉体関係を結ぶエピソードがある。
そして事件が収束し、グレガーと別れるさいに、ジェインは「これだけ言わせて。私たち、大して違わない(For what it's worth, you and I, we're not so different. )」と言い、グレガーは「裸だととくにな(Especially when we're naked.)」と返す。

おわりに

さまざまな限界により、今回の話はここでいったん終わりにする。
途中から、東の思考をつたなくなぞるだけ――というより、幼児がもとの枠線をないがしろにして好き勝手に塗り絵をするような粗雑さで日記を書き連ねているみたいになってしまっているかもしれない。参照すべき書籍も山のように積み残してしまったし、振り返ってみると、あさってのほうを向いて書いていたような気もしてくる。
リチャード・ローティ(Richard Rorty)のリベラル・アイロニスト的な在り方を念頭におきながら「観光」と「家族的共同体」を軸に新たな公共性について考える思考や(『観光客の哲学』)、物語が乱立するなかで、再帰的に自己の物語を強化するのとは異なる方法=複数の物語を経由した目でいまここの物語を見つめる思考(『ゲーム的リアリズムの誕生』)を反芻しながら、もう少しテーマパークと慰霊やアメリカのドラマ製作の在り方、もしくはアベンジャーズ/エンドゲーム(Avengers: Endgame)』を見て思ったことなんかも書きたかったけれど、またの機会とする。

ただ、最後に、アメリカドラマで描かれる連帯のかたちを、ふたつほど思い出しておきたい。

ひとつめは、みたびライアン・マーフィーの作品で、『glee/グリー(glee)』(Fox、2009~2015)だ。
シーズン1第4話「カートの告白(Preggers)」(2009)で、主要キャラのカートが父にゲイだと打ち明けるシーンがある。それまでの父とのやりとりや父の性格からして、打ち明けてもいい結果にはならないと思い恐る恐る言葉を連ねたカートに対し、父は、そのことを喜ぶ気持ちにはなれないが、おまえへの愛情は変わりないと応える。

ふたつめは、ダン・フォーゲルマン(Dan Fogelman)がショーランナーを務める『THIS IS US(This is Us)』NBC、2016~)。現代のアメリカドラマにおいて重要な特徴のひとつであると思われる、「なにがあっても物語は続いていく(人が生きているさまを撮りつづけるだけで物語になる)」という思想を実直に体現したような群像劇だ。
シーズン2第7話「家族写真(The Most Disappointed Man)」(2017)では、ジャックとレベッカという夫婦が、ランダルという子どもの養子縁組を認めてもらうため、トレーニング期間を終えて裁判所で法的手続きを進めるエピソードが描かれるのだが、担当の黒人の判事がとある理由から「黒人の子どもは黒人の親のもとで育つべき」という信念をもっており、ゆえに、自身が担当でいる限り、白人であるジャックとレベッカが黒人であるランダルの親となることはどうしても認められないと言う。
しかし、後日、レベッカが手紙とランダルを含む家族写真を判事に送ったことで、ランダルの養子縁組が成立することとなる。
ただ、ここで判事は、自分の信念にふたをかぶせ認可したわけではない。ランダルの担当を別の判事と変わることで、自分の信念は曲げずにランダルの養子縁組を成立させるという共存の道を導き出したのだ(もともと、調査員によるジャックとレベッカの適正調査にはまったく問題がなかったため、判事が変われば認可されることは確実だった)。

わたしたちは、それぞれ異なる信念を抱いて生きている。ゆえに、相手の言っていることが理解できないことは日常だ。それでも、相手のことを知ろうとすることはできるし、無理に近づく必要がないこともたくさんある。セカイの手前でとどまるよう思考があったように*13、分断の手前でとどまる思考がある。相互理解やおたがいの手をとりあうことは、共存するために必須の条件ではまったくない。多様な意見を取り入れて単一の意見に統合することと、多様な意見がそのままの状態で共存することは、いうまでもなく別のことだ。
東のツイートによると、「テーマパークと慰霊」の続編は『ゲンロン10』に掲載予定らしい。
する必要もない争いと、結果を出せるはずもない争いと、避けられない争いが乱立するこの凄惨な現実で、それでも人々が殺し合わずにすむ世界を思考する東の哲学を、これからも追いかけつづけていきたい。

*1:大連がいかにテーマパーク的であるかという話はもちろんこれだけでは終わらない。しかし、これもこれもと紹介してしまうとそれだけでエッセイの内容をかなり明かしてしまうくらい、もとのエッセイは研ぎ澄まされたすばらしい紀行文なので、少しでも興味をもたれた方がいたらぜひ直接読んでみてほしい。

*2:Google マップストリートビューでは中国の風景をほとんど見られないため、「腾讯地图(テンセントが運営している地図サイト)」を活用した。また、「E都市(E市)」という3DCGマップで見るとテーマパーク感がより増してわくわくするのだけれど、いつからか見られなくなってしまった模様。2019年3月くらいまでは消えていなかったと思われる。

*3:ビルの前には円形と思われる広場も存在するが、広場の全景が映るカットはないと思われるため(見落としていたらすみません……)、その場所が劇中で円形という設定なのかどうかを確認することはできなさそう。ただ、トゥルーマンが暮らすシーヘヴンアイランドのモデルとなった、フロリダ州シーサイドのロケ地自体は半円形であり、円形ではない。

*4:字幕版よりも原語が含むループ感が伝わりやすい吹替版からの引用。なお、当該セリフの字幕版は次のとおり。「奴ら この周りをグルグル回ってるんだ/同じ所をグルグル/行ったり来たりしてる」。

*5:これは表象(とその限界)という、繊細な手つきを要するかなり刺激的な内容なので、「テーマパークと慰霊」同様、できれば鼎談の本文をぜひ読んでみてほしい。なお、東浩紀大山顕『ショッピングモールから考える――ユートピア・バックヤード・未来都市』幻冬舎新書、2016年)では、東によるディズニーワールド観光を通じてのさまざまな発見に対し、石川初がディズニーのエイジング技術を例に挙げ、ディズニーが「あえて本物ではないもののリアリティに踏みとどまるような戦略を取っている」とかぶせ(193頁)、さらに東が「かつて磯崎新が、リアルでもアンリアルでもなく『ハイパーリアル』だという議論を立てたことがあります。ディズニーがつくっているのは、本物の二番煎じではなく、『偽物としての本物』だということですね」と返す一幕がある(193、194頁)。このハイパーリアルの話も今後のテーマパークと慰霊にまつわる思考に絡んでくるようなので、楽しみに待ちたい。

*6:『ショッピングモールから考える』233頁。なお、石川はショッピングモールとテーマパークの差異はモール性気候にあり、テーマパークはモール性気候ではないと言っているが、モールスケープのくだりは両者の人工性を凝縮したエピソードとしてきわめて象徴的であり、また、モール性気候の有無はその点の説得力を損なうほどの差異ではないと思われるため、ここに引用した。

*7:ニール・ランドー『人気海外ドラマの法則21 どうして毎晩見続けてしまうのか?』シカ・マッケンジー訳、フィルムアート社、2015年、79頁。

*8:もしかしたら二次創作という言い方は適切ではないのかもしれない。現実の冷酷さを前に、それでもその現実を生きるために人は自分なりに物語を立ち上げる。だから、現実が原作だとしたら、この物語は二次創作的だと思われる――というより、二次創作的にしかなれないけれども、それでもそれを二次創作と言ってしまうことが暴力になりうることもあるのかもしれない。ただ、そこで二次創作という言葉から避けることも誠実でないようにも感じる。いまのわたしにはこの葛藤についてうまく言葉で対応することができないが、ショッピングモールのもつ二次創作性とのあるレベルでの類似性について書いている文章なので、ここではひとまず二次創作という言葉を使い続ける。それに、むしろここで忘れてはならないのは、東のテーマパーク論や観光客の哲学――というより東の哲学全般が、原作/二次創作という二項対立のあいだをいったりきたりするような思考(脱構築)であるということのはず。

*9:ボビーはシーズン2でふたたび「148名の死」と対峙することになる。原作と二次創作はつねに重ね合わさっていて、インタラクティブな関係にある。

*10:『ショッピングモールから考える』84~90、131~135頁。

*11:東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』講談社現代新書、2007年、73頁。

*12:『観光客の哲学』126頁。

*13:東浩紀『セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題』東京創元社、2013年