5/15/2021_『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』を観て

もともと人の多いところが苦手なこともあって、わたしが映画を観にいくのはたいていその作品の上映終了時期だったりする。その傾向は、わたしの10代におけるアイデンティティの形成に大きな影響を及ぼした『新世紀エヴァンゲリオン』の完結編を前にしても変わらなかった。もっとも、『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』(以下、シン・エヴァ)の上映はもうしばらく続きそうだ。

そしてきょう(日付上はきのう)、5月14日、ようやく観てきた。いまこれを書いているのは、就寝前の15日午前3時26分。書き終わるころには4時を超えているかもしれない。

いきなり話はそれるけれど、わたしはしばらくこのブログを更新していなかった(というか、そもそもいまだ数本しかエントリーのないブログに、更新頻度もなにもあったものじゃない)。それにはいくつかの理由があるけれど、おおざっぱに言えば、文体の内容の問題だった。
なにを書くにしても、言葉を使う以上、文体の問題は避けて通れない。わたしの場合、自分で読んでいて気持ちよくなる文体がなかなか見つからず、いまこうして書き連ねているまさにその文章たちを眺めていても、どこか自分のものでないような、居心地の悪さを感じる。
また、内容にしても同じようなもので、むかしは無知(?)ゆえに自分の書いたものを楽しく読むこともできた。けれど、いまはなにをどう書いても、やっぱりしっくりこない。

でも、だからといってなにも書かないでいるといまよりも事態は悪化しそうな気もしたので、寝る前にきょうのことを少し振り返っておこうと思った。

『シン・エヴァ』は、すばらしかった。
碇シンジにとって、『The End of Evangelion』(以下、EoE)ほどすばらしいエンディングもないと思っていたけれど、『シン・エヴァ』はその『EoE』の先をいっていた。「先をいっていた」というのは、「『EoE』より楽しめた」という意味ではなく、「『EoE』のテーマ――というより、エヴァという作品のテーマをより掘り下げ、より視野の広く、公共性のあるシナリオになっていた」という感触を意味している。

また、「エヴァ」には膨大な派生作品があるけれど、TVシリーズや『EoE』はもとより、それらの派生作品が――これから生まれてくるかもしれないまだ見ぬ「エヴァ」すらもが――『シン・エヴァ』に収束するようになっていると解釈できる構造もよかった。

また、アニメーションの――わたしはアニメにおいてもっとも重要な要素は「動き」だと思っているので、その意味においての――レベルは最高峰であることは間違いなく、飽くことなくリピートし、トリップできるような、鮮やかな映像群だった。

それなのに、鑑賞後のわたしは「感動」だけではなく、それ以上にそれとは異なる感覚を抱いていた。それがよいことなのか悪いことなのかもわからない。そもそもその二項対立で考えることにあまり意味はない。とにかくわたしは、どうしてある種の冷静さを自分が身にまとっているのかを知りたかった。

行きは電車で来たけれど、帰りは暗いなかを数十分歩いた。そのあいだ、その違和感について考えてもみた。
家につき、妻と話をするころには、それらしい理由が見つかったと思っていたけれど、このブログを書きはじめる直前、もっとそれらしい理由が見つかった。というより、見つかったから、それを書きとめておきたくて、ブログを書こうと思った。

一言でいえば、わたしは今回、どのキャラにも深い感情移入をしていなかったのかもしれない、と思っている。少なくともいまの時点では。

TVシリーズや『EoE』のころは違った。自分は男性だと自認していたころのわたしは、シンジと自分を重ね、ときには涙を流しながら映像に見入っていた。
けれど、それからいくらかの年月が過ぎ、ジェンダーアイデンティティが揺らぎ、ノンバイナリーを自認するようになった――男性と自認していたころの自分の記憶や言動、振る舞いが完全に消えないなかで、それでも女性として生きたいと思う瞬間がしばしば訪れるようになったいま、シンジだけでなく、わたしは『シン・エヴァ』のどのキャラクターにも自分を重ねていないように感じる。しいて挙げるとするならばアスカが一番近いかもしれない。これは、わたしと似ているという意味では当然なく、わたしが憧れたり、共感したり、その人になりたいと思う対象として、しいて挙げるとするならばアスカかもしれないと思う、という意味だ。
それでも、どこかしっくりこない。アスカに憧れる心がかすかにある一方で、アメリカのドラマ『Girls』――わたしが「もっとも」と言ってもいいくらい好きなドラマ――を観ていたときのような、画面と自分の境界線がなくなったかのような感情移入はなかった(こんなことを書くのも嫌だけれど、当然のことながらこれは、『シン・エヴァ』がおもしろくなかったことをまったくもって意味しない)。

ミサトさんは、TVシリーズでも、新劇でも、「他者との距離感をつかむことが、大人になることだ」といった趣旨の発言をしたことがある。
そういう意味では、初回放送を観た95年の10月から26年弱を経て、わたしはエヴァとの距離感をようやくつかんだのかもしれない。

おやすみ、すべてのエヴァンゲリオン