6/9/2021_自殺をしなかった理由のようなもの #8(終了)

譜面台にギターのシールドを引っかけ、譜面台を背にして座る。そのときの自分がなにを考えていたか、よく覚えていない。ただただすべてを終わらせたかったのだと思う。記憶が薄れたいま、現実に忠実に書こうとすればするほど、月並みな言葉しか出てこない気がする。それだけ自分のなかで過去のできごとになっているのかもしれない。それに、その「月並みさ」というのは、言い換えると「普遍性」ということで、苦しみというのはその人個人のものでありながら(特殊性を内包していながら)、同時に、どこかで普遍的な回路ともつながる必要があると思っている。そうすることが、人々のいがみあいや嫉妬、妬みを少しでも減らすことにつながるのではないかと考えている。ざっくり言ってしまえば、上を見ても下を見ても、きりがないということだ(いまはこれ以上詳しくは話せない)。

話を戻そう。わたしはシールドを首にかけ、少しお尻を前に出した。そうすると、首が絞まった。そこそこの拘束力を感じたあたりで、目を閉じ、時間を数えていたと記憶している。そして、1分ぐらいしたところで、頭のなかでほんの少しひんやりしてきたように感じた。わたしはそこで怖くなり、やめた。首を吊ったのはこの一回きりだ。おそらく、専門学校を中退する前後のことだったと思う。

最初のころに書いたはずだけれど、これ以後も、リストカットやレッグカットは、いまの妻と出会うまで続いていた。言い方を変えると、出会ってからは一度も切っていない。

はじめのころは、「首を吊っていたころの自分になにを伝えたら救うことができたか」なんていうことをよく考えていたけれど、結局答えは出なかった。いまもわからない。そんな言葉、ないような気もする。いや、そもそも生き残っている時点である種の救いともいえるわけで、ほんとうに救いのないような人たちからすれば、おままごとのように見えるのかもしれない。

簡潔に書こう。このシリーズの初回で書いた気がするけど、先日、とある会合で「なぜ踏みとどまることができたのか」という質問を受けることがあった。そして、そのときにちょっと考えてみて、「物語のなかに可能性があったから」だということに気づいた。というか、少なくともいまはそれが正解なんじゃないかと推測している。
どういうことかというと、自殺するときというのは、たとえば、「自分のこれからの人生になんの可能性も見いだせないとき」なんじゃないかと思っている。わたしの場合はそうだった。わたしは、現実のなかになんの可能性も見いだせなかった。けれど、小説やマンガ、アニメやゲームなど、フィクションのなかに、可能性を見いだしていたのだと思う。それらを夢物語として捨て去ることもできるけれど、わたしはたぶん、そうせず、どうにか自分の人生を、フィクションで見てきたようなものに少しでも近づけようという希望を抱いていたのかもしれない。

ちょっと乱暴だけれど、これ以上考えると、またなにも書けずに終わってしまう気がするから、これでよいということにする。またなにか書く機会があったらというか、わたしの能力が上がったら、補足したり、書き直したり、書き足したりすることもあるのかもしれない。でも、少なくともいまのところその予定は立っておらず、かといって黙っていることもできなかったので、雑文になることを承知で書いてみた。これが、わたしが自殺をしなかった理由のようなものだと思ってる。

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