6/1/2021_自殺をしなかった理由のようなもの #3

ひとつ前の自分の記事をざっと見返してみた。
どうやら、首を吊った話の前にはリストカットの話を、その前には強迫性障害の話を、その前には高校受験に失敗した話をする必要がある、といった遡行を繰り返しただけで終わっているようだった。

また、文体も気になった。
以前から、自分の文体がドライではないことにコンプレックスがあって、なるべくドライになるように心がけているし、10年前に比べればずいぶんとましになったと自分では思っているのだけれど、ひとつ前の記事を読み返していて、消したくなったり書き直したくなったりした部分は多い。きっと、それは書いているときにもうすうす感じていたことなのだろうけれど、そこで自分の納得がいくまで文章を練らないあたりが、自分の欠点だなと思う……と、これまた「こんなこと書いてどうすんだ」と思いつつ、まあいまは前に進むことだけを考えようと思って、いまもこうして消さないで書いている。

さて、高校受験に失敗した当時の記憶は、ぼんやりとしている。
前回書いたように、第一志望校の結果発表を見にいった日の記憶は悲惨なものだけど、そこから中学の卒業を経て高校に入学するまでの短い休息期間は、受験勉強中にできなかったゲームにあけくれていて、わりと気楽な毎日を過ごしていたように思う(ぜいたくな日々ですね)。

高校を入学してから数日は、とくに誰にも話しかけられず、ひとりで過ごしていたのかなと推測する。もはや記憶がほとんど残っていない。わたしは幼少時からマンガやアニメ、ゲームが好きなほうだったけれど、中学2年か3年ぐらいからより一層のめり込むようになり、その「質」のようなものが変わった。ただフィクションを楽しむという感覚ではなく、現実での体験よりも、フィクションにふれることで見えたり感じたりすることができる「向こうが側の世界」に魅せられるようになっていた。
なかでも、小学生のときに初回放送を見た『新世紀エヴァンゲリオン』はわたしにとってわりとずっと特別な作品であって、わたしの性格の内向的な部分は、エヴァからの影響が大きく作用している(というように書くことは、あまり意味がないことだとも思う。なぜなら、そのような人は星の数ほどいるだろうから)。だから、高校でも積極的に友だちをつくろうとはしなかったのだと思う。

けれど、そうしているのも数日で限界がきたらしく、わたしは勇気を振り絞って、中学が同じだという2人組に話しかけてみることにした(そういえば、わたしと同じ中学から来ていた人は1人いて、その人は中学時代に塾も同じで、わりとコミュニケーションを取っていた人なのだけれど、クラスが違うこともあり、どちらからもコミュニケーションを取ろうとはしなかった。むろん、クラスが違うというのは本質的な理由ではなく、わたしたちの関係性がその程度のものだったということを意味している)。そこから少しずつ輪は広がっていき、また、そこには「周りがわたしをオタク*1であると認識する」こととセットになっていたから、同じような人たちとはゲームやアニメの話を、そうでない人からは少しいじられたりと、そんなコミュニケーションを繰り返していた(幸いなことに、いじめと感じるような事象に発展することはなかった。むしろ、いじめではないが、わたしのほうが周囲に対して心ないことを言っていたときもあるのではないかといまでも後悔していることはいくつかある)。

だけれど、友人関係、クラス内コミュニケーションが円滑になっていくのと逆行するように、わたしの通学状況や授業中の態度はどんどん悪くなる一方だった。深夜アニメをリアルタイムで見ているから、朝は起きられず遅刻は当たり前。授業中も当然眠くないはずがなく、ほぼ寝ている状態。わたしのような生徒など放っておく先生もいたけれど、ときには根気強く起こそうとしてくれた先生もいた。わたしその先生の声、そして体をゆすられるときの不快感に耐えられず、怒りに身を任せその先生の腕をつかみ、払った。遅刻しておきながら午前中に早退しては、秋葉原に行って虚構に身を浸した。軽音部に入っていたということもあり、先生たちからの評判は相当に悪かったのではないかと思う。

また、高校に入って友人から「PCの恋愛ノベルゲーム」の道を教えられたことは、わたしの非社会性を後押しした。次回はそのあたりの話を書いてみようと思う。ということで、きょうはここまで。

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*1:「おたく/オタク」という言葉の使い分けは、ある場面ではとても大切な議論であるとわたしは思っているが、ここではその話はいったん横においておき、「オタク」表記に統一する