5/25/2021_自殺をしなかった理由のようなもの #1

10代の終わりごろに、首を吊ったことがある。
リストカットやレッグカットは、17歳から21歳ぐらいまで続いたような気がする。
首を吊ったのが17歳のときだったか、19歳のときだったか、よく覚えていない。
そのときの自分がどんなふうにして首にケーブルをかけるまでに至ったのか、記憶は薄れ、その当時の「生きながらえている感触」がどうだったのか、いまのわたしはおそらくそれを正確に言い表すことはできない。

20代のはじめに、いま一緒に暮らしている妻と出会ったことで、わたしの人生はようやく安定しはじめたというか、ようやく始まったという感覚がある(これは金銭的な安定とは異なる😅)。その後、数年後くらいまでは、「あのときの自分になんと言えば首を吊らなかったか」ということをときおり考えていた気もする。でも、そうした思索をすることもいまでは少なくなっていた。

それが、先日、とある交流会(研修会? 勉強会?)で、「どうして思いとどまることができたんですか?」という質問をされ、ひさびさにこの問題について考え、どうにかいまの自分の言葉で当時のことをまとめることができた。というか、いまの自分から当時の自分を振り返ると、おそらくこういうことだったんだろうなというひとつの推測が成り立った。それは、「あのときの自分になんと言えば首を吊らなかったか」という問いに対する答えではないから、やっぱりいまになってもあのときの自分に投げかける言葉なんてないんだけれど、少なくともわたしのなかではわたし自身を前よりかは理解できたような気がする。

本当はひとつの投稿で具体的な話や関連する話を書いていきたいのだけれど、わたしの性格上、そうやっていっぺんにすべてをしようとして、でもできなくて、結局一歩も進めない、ということが多かったから、少しでもこの冷酷な現実にあらがうために(自分が生きているあしあとを残すために?)、きょうからちょっとずつ更新していこうと思う。

これを書いているのが寝る前、午前5時ちょっと前というせいもあってか、この、「冷酷な現実にあらがうために」なんて言葉が浮かんできてしまうあたりに、わたしのなにかしらの特徴が表れているし、中二病っぽいと思う人もいるかもしれないけれど、このような文章を読んでそう思える人は、きっと自殺からは離れたところに立っているから、それはよいことなのだと思う。
むしろ、このような文章に共感しながら読んでくれたり、いままさに腕に刃を立てている人や、なにかしらのコードを首に巻き始めている人や、朝日を前にすずしい風を高いところで受けてタイミングを見計らっている人がいて、かつ、その人が「できればまだ生きたい」と思っているのならば、わたしのTwitterやDiscordやメールなど、どんな手段でもいいから声をかけてほしい。24時間以内には返信できると思う。わたしは、「生きろ」だなんて無責任なことは言えないし、人を救えるという自信を持っているわけでもない。ただ、わたしの経験を話すことはできると思う。
きょうはここまで。

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